Oct 8, 2019

見捨てられた誰かの物語。映画ジョーカーを見てきました。

 

おぎの稔です。本日は少しお時間を頂き、平和島で映画「ジョーカー」を観てきました。

ジョーカーは言わずと知れたバットマンの悪役です。悪党ジョーカーの誕生秘話でもあるのですが、この作品が日本ではなくアメリカで作られたことに、社会を覆う閉塞感、やるせなさを感じます。

 「無敵の人」という、社会からも見捨てられ(特に男性が多いのですが)人が社会に犯罪という形で爪痕を起こす問題が、世間でも認知されてきた昨今の日本の情勢にこの作品は合致します。アメリカもそうなのでしょう。この作品は今までに目覚めた、またこれから目覚める誰かの物語なのかもしれないと劇中で、主人公アーサーへの社会の仕打ちと軌跡を見て感じました。

 中盤まで特別なわけでもない、疾患を抱えた不器用で優しい男が、社会でどんどん苦しめられていく様子が描かれます。アーサーは仕事からも公的福祉からも見捨てられ、最後は家族、憧れの人にも、現実を突きつけられます。そういった中で彼が選んでしまった道を批判する事は簡単ですが、自分や自分の隣人が友人が家族が、そうならないと言い切る事が出来るでしょうか?

 

 誰もがジョーカーにはなれないかもしれないが、誰かがもしかしたらジョーカーになる。

 ゴッサムシティではジョーカーが誕生し少なくない人がジョーカーの狂気、憎悪、怒りに感染して凶行に走ってしまいました。私達の社会もそうならない保証はありません。共感、伝染が、知らずに進み、何か大きな破滅が起こる。そして社会はいつもの様に「どうして?」「なぜこんなことを」と嘆くのでしょうか?

 「火葬場は必要だ、私の家の隣以外に」ではありませんが、施設だけでなく、人間に対しても行われてるように感じます。社会で、私的空間で。口では、理想では綺麗な事を言いながらも知らず知らず理由をつけて、冷酷な差別や区別を行ってはいないでしょうか?

 私たちは自分のエゴで自分の邪魔になるものを見殺しにしながら生きており、そうした社会の行き着く先がジョーカーの誕生なのかもしれません。

 

 映画「ダークナイト」で、ジョーカーは「警察もマフィアも企む。企む奴らに教えてやる。世界はコントロール出来ないと」と語っていましたが、私達の社会も、政治も行政も、人を型に嵌めてコントロール、抑圧しようとします。 今作のアーサーは、そんな抑圧に対し、怒り笑っているのかもしれません。是非、家族、恋人、友人との視聴をお勧めします。こうしたアーサーのような悲しい男は今の世界中で耐え苦しんでいるのです。

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